Empathemian『新渡戸稲造・修養』

What matters is subtraction, not addition.(足すのではなく、引くことが大切)

教育は、だれかが教えること。
修養は、じぶんで身につけること。

「じぶんで」することが、修養になります。
それは、どんなに小さな、ささやかなことでも、かまいません。
その小さなことを大切にする姿勢が修養になります。

修養の中身。それは、静穏のじかんをもち、姿勢を正す場をつくることです。
そして、そのおこないが身につくように、じぶんのことばでふりかえることです。

修養に、「間違える」とか、「失敗する」といったことは、ありません。
じぶん自身に心をむけるかどうか、そしてそのようにふるまうかどうか、だけです。

新渡戸稲造の『修養』には、こうあります。

「人はつまらぬことと思い、何ら注意を払わないことでも、よく注意しさえすれば、継続心を 磨く材料となる。いかに小さな行いであっても、その間には偉大な原則が含まれておる。」

私たちの日常には、やろうとしていたことができなくなったり、ものごとが続かなくなったりすることがよくあります。
そんな時、じぶんの意思が弱かったとか、じぶんの心が負けたとか思って、じぶん自身を責めたりすることもあるでしょう。

克己心こっきしんということばがあります。

克己こっきとは、「じぶんにつ」、つまり自分の心に打ち勝つこと。自制心を持つという意味で使われます。克己心、つまり自制心がないから、ものごとが続かないのだ、というふうに。

なんとなく、そういうものだと思ってしまいますよね。ところが、『修養』では、こんなふうに言っています。

「克己というけれども、よく考えてみると、自分に勝つというのは、おかしい。自分は、自分に対して勝ったり負けたりするものではないだろう。」

そして、克服するとは、勝とうとすることではなく、むしろ「自己を捨てる」ことだ、そういう意味に受け取っている、というのです。

自意識を強めて、勝敗モードになるのではなく、むしろ、自分を中心にして発想する気持ちを、いったん捨ててしまうことである、と。
そういうプラクティスをするのだ、と。

「克己に多大なエネルギーを費やすのではなく、毎日ありふれたことを何回となく、繰り返し、継続することに精力を注ぐようにするのがよいと思う。」

大切なのは、むしろ、足し算の発想ではなくて、引き算の発想なのです。
何かをがんばってしようとするばかりではなく、むしろ、そのような意識を、一日一回、和らげてあげること。
じぶんをふりかえり、気持ちを確かめることが、修養になる。それが、毎日続くことが、いちばん大切なのです。

出典・参照:新渡戸稲造 『修養』、以下のエンパレット

「修養する人になる」へ

「修養とは?(1)」

新渡戸稲造