
Life is emergence.(生きるとは創発すること)
今日、病床の母がこんなことを言った。
「10月14日は、大和さんの誕生日。そりゃ、ないもないけど、和食と洋食は、高級にしたの。」
1年半前、心房細動から引き起こされた脳幹梗塞。
半日越しの手術で、一命は取り留めたが、重大な後遺症が残った。
物書きとして、ことばとストーリーの創作に人生を重ねてきた母。
94歳で、ことばのゼロリセット。
倒れる日の直前に、94歳を祝う誕生会を催した。
家族だけの、小さいけれど、盛大な会。
以来、何度なく、倒れてゼロになったことばを、取り戻してきた母。
倒れる前と、同じ口調。
生きている限り、回復できる。
「みんなにね、……しちゃったら困るじゃない。みんなで行くんだもの。みんなで… みるんだもの。……ごはん。10人ぐらい。盛大に。」
病床の母が誕生会のアレンジをした話。
つくり話?
そうではない。
母の心の中の出来事である。
本当である。真実の話。
ストーリーは、つくるもの。
エピソードは、語るもの。
何もないところから創発はしない。
10月14日ということば、その音の響きを感じで、言ったのだ。
盛大なパーティにしましょうね。
毎日じぶんに面会に来てくれる長男のために。
盛大な誕生パーティをひらいてあげたい。
聞き取りづらいけれど、「みんなで」ということばに力がこもっている。
私は、ハッとした。
病院のベッドで寝ている老婆が言うことだから架空の話。
私たちは、知らないうちに、そんなふうに聞いてしまう。
しかし、そうではない。
大きな誤解なのだ。そのことに私はようやく気がついた。
元気な時と、言っていることは何も変わらない。
こんなふうにしましょうよ、と言っているのだ。
それに従って、実行していていたじゃないか。
この口調は、証である。
たいしたことはできないけれど、というのは母の謙遜のことば。
人を招くホームパーティの素材・お酒、すべてを母が出していた。
気前のいい母がそのまま再現されている。

ところで、日本の和歌は、願望のオンパレードである。
古文というと「なむ」とか「もがな」ということばを思い出す人もいるだろう。
今はただ 思ひ絶えなむとばかりを人づてならで いふよしもがな
「もがな」は、いまここにはないものを、「あればなあ」と願うことば。
——人づてではなく、直接言うすべがあればなあ。(藤原道雅『後拾遺集』)
飽かなくに まだきも月の隠るるか山の端逃げて 入れずもあらなむ
——山の端よ、月を入れないでいてほしい。(在原業平『古今集』)
「なむ」は、「そうしてほしい」「そうあってほしい」と願いかけることば。
まだないことを、人はことばにする。
会いたい。
伝えたい。
もう少し、月を見ていたい。
ないものを言っているから、つくり話なのではない。
いま、その願いが心に起きている。
母の「10人ぐらい。盛大に。」も同じだ。
誕生会はまだない。
10人も集まっていない。
でも、「みんなで、盛大にやりましょうよ」
その心は、いまここにある。
10月14日ということばから、母の中にひとつの世界が生まれた。
願いは創発する。願いは、まだない世界を心にひらく。
願いは創発する。
心の世界。(*注1)
Practice who you become.(なりたいじぶんを、プラクティスする)
作(文・挿絵・声に出すことば・声):坂口立考
出典・参照:母との会話、在原業平『古今集』、藤原道雅『後拾遺集』
(*注1) 脳は、記憶と想像をまったく別の働きとして扱っているわけではありません。過去の出来事を思い出す時と、まだ起きていない出来事を思い描く時には、海馬を含む共通の脳ネットワークが大きく働きます。記憶も、保存された過去をそのまま再生するのではなく、経験の断片をそのつど組み合わせて構成されます。脳はその同じしくみを使って、まだない出来事を思い描きます。
記憶研究で知られる心理学者ダニエル・シャクターは、この働きを「constructive episodic simulation(構成的エピソード・シミュレーション)」と呼んでいます。
これは、母だけに起きている特別なことではありません。私たちは日常的に、記憶と想像を行き来しながら、心の中に出来事をつくっています。夢も、そのわかりやすい例です。
和歌の心も同じです。「会いたい」「こうあってほしい」「こんな時があれば」と、過去の経験や、いまの思いから、まだない世界をことばにします。
母のことばも、昔の誕生会を「再生」したものと、これからの誕生会を「想像」したものに、きれいに分けられるわけではありません。生きてきた経験と、いまの願いが結びつき、ひとつの出来事として心に立ち上がっているのです。
