We are all anxious people.(だれにだって気にかけていることがある)
スウェーデンのドラマ『Folk med ångest』(邦題「不機嫌な人々」)。
フレデリック・バックマンさんの小説を、ドラマ化した作品です。
英語のタイトルは「Anxious People」。
いつも機嫌の悪い人たちの話ではありません。
心のどこかに、ひっかかるものをもっていて(anxious)
長い間、じぶんでもそのことに気づいていなかったー
そうです。私たちは、だれしも「anxious people」です。
ある出来事をきっかけに、関わった人たちの心が少しずつ変化していきます。
銀行強盗と人質籠城ではじまる、ミステリー事件。
というと、サスペンスか、アクションを想像しますよね。
ところが、「じぶんが変わる」ストーリーなのです。
ストーリーの展開は(当然ながら)伏せておきましょう。
こんなセリフが語られるシーンがあります。
To err is human.
To forgive is divine.
過ちをおかすのは、人間。
ゆるしは、神のみわざ。
よく、知られたことばです。
失敗や過ちを責めるのではなく、受け入れること、ゆるすこと。
To forgive is human, too.(人は、ゆるす存在にもなれる)
もちろん、ゆるすこともまた、人間のなせる技です。
相手もじぶんも、なかなか許すことができない、私たち。
でも、出口はひとつです。
ゆるせるようになること。じぶんが変わること。
ゆるすことほど、むずかしいものは、なさそうです。
ひどい目にあわされた、心ない仕打ちをうけた、どうして許せましょう、と。
一方、そのような心をもったまま、生きていることもまた、苦しいもの。
ふだんは、気づいていないのかもしれません。
いえ、気づかないようにしているじぶんに、気づいていないのかもしれません。
「ゆるす」とは、ゆるめること、ほどくこと。
しばっていたものを、ゆるめるのです。
しばられているものは、何でしょうか?
じぶんです。
たとえ、原因(とじぶんで決めていること)が、相手であろうと世界であろうとも。
だれのせいであろうとも、しばられている対象も、しばっている当事者も、じぶん以外にはいません。
心がしばり、しばられている。
でも、どうしようもないではないか?
ゆるすことは、容易ではない。
太古の歴史から、神のみわざ(divine)のようにすら思える。
ゆるすのが正しいのか?
まちがっているのか?
そんなふうに考えると、ますます行き場がなくなってしまいます。
ゆるすことがなぜ、神のみわざかといえば、そのようなわけへだてをしないからなのでしょう。
正解を求めるという次元ではなく。
そもそも、そのように考えること自体を「ゆるす」(放り出す)ことなのでしょう。
英語の動詞 forgive(ゆるす)は、for+giveという形のことば。
「ぜんぶ、あげてしまう」という意味から来ています。
どうやって、ぜんぶあげてしまう?
じぶんのものでなければ、気にかける必要はなくなります。
オススメの方法は、ひとつです。
声にだして、言ってしまうことです。
Let it go.(すべて、手放そう)
I forgive you.(ゆるすよ)
そんなこと言っても、何も変わらないのでは?
いいえ、ちがいます。
確実に変わることがあります。
「ゆるす」と言った証が残ります。
そのように言うことで、ずっと楽になります。
「許せない相手」や「許しがたい出来事」や「許したくない世界」を、変えることはできません。
その必要もありません。
じぶんが、すこし変わるだけでよいのです。
「ゆるす」力について説いた本はたくさんあります。
が、大きな問題、ヘビー級のゆるしを「理解する」前に、
毎日のささやかな出来事の中に、ゆるしの小さなプラクティスがあります。
エンパシームに、そっと、言ってみましょう。
相手がだれでも、じぶんでも、かまいません。
このひとことを。
I forgive you.(ゆるすよ)
あとは「たとえば、宇宙のものさし」を思い出してみましょうか。
じぶんと相手が、天の川銀河で、寄り添っていたら、たぶん「ゆるさない」ということばは、宇宙の中に溶けてしまっているのではないでしょうか。
出典・参照:Fredrik Backman『Anxious People』、同映画 (Netflix配信)、 Gerald G. Jampolsky 『Forgiveness』