下手も絵のうち。
そう言われると、すこし励まされますね。
ただ、下手でいいから、やってごらんよと言われても、まだ、勇気がいります。誰も見ていない、自分だけのものでさえ、自分は下手だと思うとやれないもの。
私たちは、物心ついてからずっと、物事を比べて、分ける練習をしてきました。「うまいか・へたか」「よいか・悪いか」「自分のためか・誰かのためか」など、常に「判断」することが身についているのです。
じぶんが生きていくのに、上手も下手もない
「判断」は、生きていく上で必要なことです。「判断」はなくなりませんし、なくなっては困ります。でも、その一方で、何かを「しようとする」時、足かせになります。この「矛盾」は克服できるのでしょうか。
心が自由自在になることを「あそぶ」と言います。
中西進さんによると、「あそぶ」の「あそ」とは「ぼんやりとした状態」という意味だそうです。古来、空っぽにすることを「あそび」と言いました。
目的意識とか価値判断を、空にする。分け隔てに縛られず、忘れていること。それが、あそぶことです。
荘子は、こう言います。
(曲がりくねった木は役に立たないからこそ、寿命を全うできる。)木の身になってみれば、よいのですね。役に立つ、立たないは、忘れられています。
心に
(心には、おのずから備わった遊びがある)
共感の心、遊びの心。もともと備わった心。
Be playful. Let it go.
出典・参照:熊谷守一『へたも絵のうち』、中西進『日本語のふしぎ』、荘子『外物篇』