
Maybe. Or maybe not.(そうかもしれない。そうでないかもしれない)
『Peanuts』にこんな作品があります。(*注1)
スヌーピーとウッドストックが向き合っています。
スヌーピーは、心の中で考えます。
きみとぼくは、けっこう似ている。
ありふれた鳥、ありふれた犬。
もし望んでいたら、いい関係になれたかも。
でも、そこまで望んでいたわけでもないか。
いや、望んでいたら、そうなれたはず。
でも、その必要もなかったかな。
んー、でも、なれたとは思うんだよね。
今からでも?
いい関係でいたのか。
いい関係でいられるのか。
どちらもありうる。
どちらでもよい。
淡い交わりだから、いいのかも?
可能性は無限にあります。
答えは、ひとつではありません。

That’s not it.(問題はそれじゃない)
禅語に「
禅は、公案と呼ばれる師と弟子の問答を通して学ぶプラクティスです。
その意味で『Peanuts』のこの作品も、どこか禅問答に似ています。
弟子:犬にも仏性があるのですか。ないのですか。
師:無。
仏教は、すべてのものに仏性があると言います。(*注4)
でも、師は「無」だと言うのです。
無は、NOではありません。
その問い自体がズレている。
その考え方そのものを捨てよ。
あるとかないとか、答えに拘るな、と。
わからないことに、無理に答えを出さないでよい。
急に判断しても、そこから何かがわかるわけではない。
わかる時が来るまで、そのままにしておけばよい。
「答え」を聞いても「わかった」ことにはならないからです。

You do not learn empty.(空のバケツではないよ)
こういう話は、なんとなくわかる気もします。
でも、今ひとつピンとこない。
あまり実感が湧かない。
話を聞いても、腑に落ちない。
今のじぶんにとって、大事な話にも思えない。
では、別の角度から考えてみます。
「バケツ理論」ということばがあります。(*注3)
人間の頭をバケツのようなものと見て、目や耳から入る情報がたまっていけばと、自然に知識ができる、という考え方です。
でも、人間の頭は、そんな単純なバケツではありません。
私たちは、ただ見ているのではない。
見直し、確かめ、ことばにしながら見ている。
ただ聞いているのでもない。
触れたり、くりかえししたり、声に出しながら聞いている。
五感と結びき、ことばで確かめる中で、少しずつわかってくる。
しかも、頭は空のバケツでもありません。
最初から、すでに色々なものが入っています。
常識、慣習、期待、思い込み、身体感覚、価値判断。
そうしたものが、新しいものが入ることを妨げます。
「答えを教えてくれ」という依存も、そのひとつです。
「わからないことがある」ことが「わかる」こと。
「答えも教えてもらわないと」という惰性を捨てること。
それが、Unlearningです。
Unlearningに不可欠なのは、声に出すことです。
声に出して、じぶんでそのことばを聞くのです。
ところで、『Peanuts』で、スヌーピーは声に出して話しません。
吹き出しのセリフは、スヌーピーの心のつぶやきです。
話してはいないのに、そこには声が宿っています。
スヌーピーの声は、あなたの頭の中の声。
それを本当に声にした時、今はわからなくても大丈夫だと、少し心強く感じられるでしょう。
出典・参照:以下の原典、エンパレットなど
(*注1) 1996年2月10日付『Peanuts』日曜版(Charles M. Schulz, United Feature Syndicate 配信、米国各紙掲載)
(*注2)『従容録』第18則「趙州狗子」
(*注3) カール・ポパー『客観的知識』
(*注4) 仏性とは「とらわれない、目覚める性質」
知識はものではない(ことばによる錯覚です)
知識は入手する「もの」ではない
プラクティス『禅とテクノロジー』論
https://www.gocomics.com/peanuts
