Time doesn’t flow.
じかんは、流れない。
あ、また?
現代物理学によれば、じかんは人間の意識の産物だと言います。
哲学では、なんと言っていますか?
「人間は、経験する前に、どう受けとめるかの形式を持っている。時間や空間も、経験に先立つ形式のことである。 」(イマニュエル・カント)
一歩、踏み込んでみましょう。
大森荘蔵さんは、このように説いています。
「私たちの生活世界の事実としての過去とは、人間が言語的に制作した「過去物語り」である。過去とは経験を超越した何か実体的なものではなく、言語的な制作物である。」
どういうことかというと:
・過去の知覚はすでに過ぎ去って、いまは存在しない。
・思い出しているのは、「ああ痛かった」「ああうまかった」という命題。
・過去性はどのように理解されるのか?それは、動詞の過去形の了解によってである。つまり、言語的了解によって。
・想起とは、過去形による言語理解にほかならない。
「何かを想起するとは、言語的命題の一群であって、知覚的ではない。想起されるのは、何であれ、過去性を知覚的に描写することは不可能である。過去の図解などはありえない。われわれはやむなく現在風景を代用して過去を図解するほかはない。」
つまり、過去という時間も、じつは、ことばによってつくりだすもの、だというのです。
・時間の流れという観念は、言語的命題。(過去の運動とは、想起された運動、ことばの中の運動)
・想起とは、言語の意味理解という知性的で思考的な経験。
・いま現在経験しているのは、知覚経験に類似した何かではなく、「あー楽しかった」という言語命題の意味の経験
時間は流れ去るものではありません。
ことばによって、生成されるもの。
じかんは、ことば。
さて、大切なのはここからですね。
じかんは「ことば」なのだとすると?
そのじかんのことばをどのように使ったらよいのでしょうか?
じぶんで、手入れをすることです。
時間は、勝手にすぎていってしまうのでは、ありません。
時間は、知らないうちに流れ去ってしまうのでもありません。
じぶんのことばで、手入れができるのです!
じぶん・じかんは、ことばで:
・あじわうことができる。
・くりかえすことができる。
・ふりかえることができる。
・くみたてることができる。
・わかちあうことができる。
声にすることです。ことばにすることです。
それをじぶんで聞いて、たしかめることです。
じかんは、じぶんと共にあるのですから。
I am time.
出典・参照:大森荘蔵『時間は流れない』、『時間と存在』