目に見えないものは、心に映して、見る。
春らんまん、でも、今年の春は、世界中、いつもと様子がちがいますね。 電子顕微鏡で映された新型コロナウィルスの画像は、花粉のように見えます。 英語では、COVID-19 (Coronavirus Disease 2019) と命名されています。 丸くて、小さくて、草間彌生さんデザインのような、赤いツブツブ模様のついた服を着たコビッドさん。 ウィルスは、生物ではないの? 一般に、そう言われます。自力で生きているわけじゃない。代謝しない、複製しない、から、と。 中屋敷均さんは、こう言います。 「ウィルスも、生命という大きな現象の一員である。」 「最近発見されたパンドラウィルスは、遺伝子を2500個ももっている。生物よりも複雑な機構をもっている。代謝というが、ヒトは自己の維持に必要な代謝系の一部を外部環境に依存しており、決して自己完結していない。生命という現象は、情報の保存と変革をくりかえし、継続してくこと。「生命の輪」が一つの現象であるのなら、ウイルスもなく、その輪の無くてはならない重要な一員である。」 ウィルス=悪者として、恐れ、忌み嫌うだけでおわりにせずに、すこし考えてみたいところですね。 生命現象の原理は、個体の生命観よりも、もっと大きい。おたがいさまの世界。 We are life because we are living. ふだん、私たちは、「いのちがあるから、生きている。いのちは、生命体。ひとつの個体。それが生きている。」そのように考えていると思います。 ところで、コビッドさんのおかげで、再認識したことがあります。 感染経路は、じぶん。 最終的には、経路はじぶんですよね。じぶんで、コビッドさんを体に入れている。 え?人から移されるんでしょ? ええ、でも、やはり、最後はじぶんで口の中にいれている、ということには変わりはないようです。サッカーで言えば、ディフェンスする人が、じぶんで自分のゴールにいれてしまうこと、つまり、オウンゴールです。 人がそれとは知らずにまいたものを、最後にじぶんの身体に取り入れた人は、じぶんです。そう、取り入れた犯人は私。他にはいません。 咳をしている人の近くにいれば、鼻や口に直接飛びこんでる、ということもあるでしょう。でも、大半は、その辺に落ちたり、くっついているコビッドさんを、自分の手で口にいれている、ということなのでしょう。 手をよく洗いましょう、とよく言われるとおりです。でも、1日マスクで収集してきたコビッドさん。手を洗う前に顔をいじると、手で収集して、ペロリとなめているのとおなじことになるのかもしれません。 目にみえる大きさ、たとえば、ゴルフボールぐらいだったらどうでしょう。それがその辺にゴロゴロと転がっている。目に見えたら、わざわざ、ひろって口の中にむしゃむしゃと入れる光景は、ありえないですよね。 でも、コビッドさんたちからすれば、そのように見えているのではないでしょうか? ある研究によると私たちは、1時間に20回以上も、顔にふれているそうです。無意識にやっている。口に手をもっていくだけじゃなくて、目も耳も鼻も、顎も頰も額も髪も。 突然やめろ、といわれても、それは相当むずかしそうです。気づかずにやっているわけですから。考えてみると、私たちの日常にとって、これがいちばんの課題ではないでしょうか。 マスクは、心強いツールですが、ある意味、掃除機のフィルターみたいなものですね。
とすると、コロナ収集機を顔につけたまま、街を歩いているみたいな話になります。(*注) あえて、コビッドさんを絵にしてみたのも、そのためです。はじめ、この絵をみた時は何を食べてるのかな?と思いますね。そして「コビッド?ウィルス?うわぁー!」となりますよね。それが、目に見えない現実を映し出していたとしたら。 情報の入力過剰の時代、知識はいくらでもあって、アクセスも簡単なのですが、意外なほど、想像してみる機会は、少なくなっているのかもしれません。怖いという感情は、人間らしさの一端ですが、想像はそれ以外にも、助けになってくれるはずです。 Inspire imagination. 出典・参照:中屋敷均『生命のからくり』『ウィルスは生きている』、Nick Lane 『The Vital Question』 注:最新の研究(Yale University/National Academy of Sciences) によると、湿度とコビッドさんの関係が報告されています。湿度の高い地域での感染例が少なく、反対に乾燥した地域の感染事例が多いこと。室内の乾燥は免疫力を低下させるので、保湿のためにマスクは有効な手段です。オウンゴールさえ気をつければ。 本エンパレットは、2020年3月12日配信分です。続編のエンパレットがしかかり中です。
(生きているから、いのち。じぶんは、いのちの一部。)
でも、そういうふうに見るのではなく、生きていることを「いのち」と呼ぶほうがふさわしいのかもしれません。
なぜなら、生きているという現象は、まわりの環境とのやりとりなしには、ありえないからです。いのちがひとつだけ、先にある、ということはないのですから。想像をひろげるエンパレット