松下幸之助『道をひらく』に収められた「心の鏡」の一節から。
「身なりは鏡で正せるとしても、心のゆがみまでも映し出しはしない。だから、人はとかく、自分の考えやふるまいの誤りが自覚しにくい。心の鏡がないのだから、ムリもないといえばそれまでだが、けれど求める心、謙虚な心さえあれば、心の鏡は随所にある。」
「自分の周囲にある物、いる人、これすべて、わが心の反映である。わが心の鏡である。すべての物がわが心を映し、すべての人が、わが心につながっているのである。」
きっと、そうなんだろう、そうありたいもの。
と思うのですが、その肝心なことを忘れてしまいがちです。
日常は慌ただしくて、なかなか、その心の鏡が見えません。
というより、そもそも、それはどんなふうに練習したらよいのでしょう。
「心の鏡」といっても、なんだか練習も何もせずに、いきなり、するみたいな気もします。
心を映すと思わないで、きっと何かが現れているのだろう、というぐらい、小さなふるまいをもっと小さく、ほんのひとときのじぶんの鏡に映すことはできないでしょうか。
ほんのひとときの、「じぶんの鏡」をもとう。
「私」の人格、人生が映るというより、まず、ひとつひとつの小さな[ いま ] だけを。
そんなふうに、小さく考えて、「ミニマル」にはじめられたらいいですね。
頭で考えるよりも、素手のふるまいで、身につけられるように。
エンパシームは、毎日ひとつ、小さなふるまいの鏡になります。
Reflect yourself on Empatheme.(エンパシームに映して、ふりかえろう)
「修養と共感のイノベーション (3) エンパシームでひらく路。」
出典・参照: 松下幸之助 『道をひらく』