こんな会話を思い浮かべてみます。

の:もう疲れちゃったよ、ドラえもん。
ド:えーっ、のびちゃん、もう疲れたの?
の:こんなに石段があるなんて。
ド:のびちゃんがお寺に来たいっていうから。
の:もうたくさん見たよ。で、お寺はどれなの?
ド:どれって、今いるところじゃないか。
の:どれどれ?この石段?あの鐘?仏像?おさいせん箱?それとも、お坊さんのこと?
ド:その全部でお寺っていうんだよ。
の:お寺ってものはないの?
ド:どれがお寺、じゃなくて、全体でお寺。建物
も仏像も、お坊さんも、お経も。この雰囲気もお経もみんな含んで、お寺っていうんだよ。
の:なーんだ。早く言ってよ。
ド:だからこうして来たんじゃないか。
の:ふーん。めんどくさいね。
Empathemian, 哲学堂公園,(東京都中野区)

It’s a whole thing.(ぜんぶで)

こんな会話を思い浮かべてみましょう。

の:もう疲れちゃったよ、ドラえもん。
ド:えーっ、のびちゃん、もう疲れたの?
の:こんなに石段があるなんて。
ド:のびちゃんがお寺に来たいっていうから。
の:もうたくさん見たよ。で、お寺はどれなの?
ド:どれって、今いるところじゃないか。
の:どれどれ?この石段?あの鐘?仏像?おさいせん箱?それとも、お坊さんのこと?
ド:その全部でお寺っていうんだよ。
の:お寺ってものはないの?
ド:どれがお寺、じゃなくて、全体でお寺。建物も仏像も、お坊さんも、お経も。この雰囲気もみんな含んで、お寺っていうんだよ。
の:なーんだ。早く言ってよ。
ド:だからこうして来たんじゃないか。
の:お寺って、ひとことで言えるのに、こんなに歩かないとわからないんだね。

そうです。いろいろな要素が集まり、抽象されて、お寺という概念になります。
むずかしく考えないでも、私たちは、そのように物事を捉えることを、小さい頃から自然に学んでいます。

でもふだん、私たちはそのことをすっかり忘れています。
お寺を歩けば、お寺がどんなものかは、すぐわかります。ただ、それを頭だけで考えようとすると、かえって混乱してしまうのです。

ギルバード・ライルは、そのことを、「カテゴリーのあやまり」(Category mistake)と呼びました。

お寺の中のものひとつひとつは、お寺ではありません。
お寺は、それらのものとは、カテゴリーがちがうのです。おなじような分け方はできない、ということです。

It’s a mistake!

おなじように、心も、ひとつのカテゴリーです。
どの気持ちが心なのか?ではなくて、心は、それらとは、ちがう概念なのです。

ライルはこう言います。

身体の中に、心はない。

え?ふだん、私たちは、身体の中に心があると思っていますよね。
ライルは、そうではない、心の概念は身体の内外の両方に関わっているのだ、と言います。

心は、身体から取り出して眺めたりすることはできません。

感情という「部品」を寄せ集めてできたものではないのです。

心は、ものではなく、はたらきです。

しかも、全体をひっくるめて、心と呼べるような、ふるまい、姿勢、雰囲気が一体になったものです。
つまり、ひとつの大きなカテゴリーです。

心というと、むずかしそうにも聞こえるのは、本来、わけられないもの、別のカテゴリーのものを、部品のように考えようとしてしまうからです。

お寺に関する部分ひとつひとつは、「お寺」でないように、心も、気分や感情を指して、心ということはできません。
身体の中だけで起きる働きではないのです。それを、無理やり、自分の身体の中の部品のように扱おうとするから、わからなくなってしまうのです。

じぶんの身体の中で沸き起こる感情ひとつひとつは、心の現れですが、心ではありません、

周囲の空気に包まれ、人や自然とふれあう、そのはたらき全体が心。

共感もおなじです。
自分の身体の中にあるものではなく、じぶんと相手、周囲とのあいだにおこる働きです。
自分中心に考えるのは、カテゴリーミステイクなのです!

出典・参照:ギルバート・ライル『心の概念』、以下のエンパレットなど

「学びは、じぶんの身に結びつけること」

「AIは複合概念」

「ギルバート・ライル」