Empathemian『Grow From Within』

You can teach the form. You can’t make the adjustment for them. (型は教えられるが、調節はできない)

⚫︎ 外から人は育たない

「人を育てる」ということばを、私たちはあたりまえのように使います。

教育、人材育成、能力開発、研修、コーチング。そこには、教える側から働きかけることで、人は育つという考えがあります。

知らなかったことを知る。方法を教わる。手本を見て、できなかったことができるようになる。確かに、外からの働きかけで、人は変わります。

では、外からできることと、できないことは、どこで分かれるのでしょう。

子どものころ、鉄棒の逆上がりを教わったことがあるでしょう。

地面を強く蹴る。お腹を鉄棒に近づける。足を上に振り上げる。そんなアドバイスを、なんとなく思い出せます。

どれも、まちがってはいません。でも、その説明を聞いたから、逆上がりができるようになったわけではありません。

じぶんで蹴ってみる。身体が鉄棒から離れる。もっと強く蹴る。今度は足だけが上がる。何度もやって、そのたびに少しずつ動きが変わります。そして、あるとき、できるようになります。

何が起きたのか、じぶんでもうまく説明できません。蹴る強さ、腕を引くタイミング、身体の丸め方。何度もやる中で、それらが少しずつすり合っていったのでしょう。

先生は、やり方を教えることができます。でも、そのすり合わせを本人に代わってすることはできません。

⚫︎ 自転車の乗り方は教えられる

自転車なら、そのことがよくわかります。

前を見る。ペダルを踏む。ハンドルを大きく切らない。乗り方を説明することはできます。手本を見せたり、後ろから支えたりすることもできます。

けれど、右に傾いたときに、どのくらい身体を戻せばよいかを、その人の身体に渡すことはできません。

本人が乗ってみる。傾く。戻す。戻しすぎる。また傾く。少し変えてみる。そのくり返しによって、身体の動きと、見えているもの、感じているものが、少しずつすり合っていきます。

乗れるようになるとは、正しい乗り方を知ることではなく、動きながら調整できるようになることなのです。

型は渡せる。調整は渡せない。

Grow from within. (内側から育つ)

mpathemian『Grow From Within』

箸を使う。字を書く。自転車に乗る。どれも、説明を頭に入れてからできるようになったわけではありません。

ところが、学校や会社で「人を育てる」となると、この順序がひっくり返ります。

教える側には、教育、人材育成、能力開発、研修、コーチングがあります。教えられる側には、受講する、指示に従う、課題をやる、理解する、覚える、評価される、があります。

教える側が働きかけ、教えられる側がそれを受け取る。私たちが「人を育てる」と言うとき、いつの間にか、この形があたりまえになっています。

けれど、逆上がりや自転車で起きていたことが、ここにはありません。

じぶんでやってみて、思ったようにならず、じぶんを調整して、またやってみる。その時間です。

⚫︎ 答えは同じなのに、なぜ?

筆者にも、こんな体験があります。

英語の音を聞き取り、声にする「英語耳°」のプラクティスに取り組んだ子どもたちの中に、毎日の練習を続け、力を伸ばしていった子たちがいました。その子たちに、発音や聞き取りのコツを順番に教えたわけではありません。

本人がまずやってみます。聞こえない。声にできない。何度かやっているうちに、「ちがうの、これですかね?」と本人から聞いてきます。そのときに、こちらは答えます。

こちらから教えにいったのではありません。聞かれたから、答えたのです。

以前は、こちらから先にいろいろレクチャーしたこともありました。ところが、その子たちは、なかなか練習が続きませんでした。

教えていることは、実は同じです。違うのは順序でした。聞かれていないことを先に教えるのか、本人がやってみて、疑問が生まれるまで待つのか。

大切なことなら、先に教えておくほうが合理的に思えます。知らないことを先に教えれば、余計な失敗をしなくてすむ。上達も早くなるはずです。

ところが、そうではありませんでした。

何が違ったのでしょう。

答えが違ったのではありません。答えを受け取るとき、本人の中に「問い」があったかどうかです。

⚫︎ 問いができてから、答えが届く

逆上がりでも同じです。

何度やっても上がれない子に、先生が「もっとお腹を鉄棒に近づけて」と言う。最初に聞いたときには、何をどうすればよいのか、よくわかりません。

ところが、何度もやって、身体が鉄棒から離れてしまったあとに聞くと、同じことばが違って聞こえます。

「あ、これか。」

じぶんでやったから、じぶんの動きと比べられます。思ったようにならなかったから、どこが違うのかを探せます。そこに「もっとお腹を鉄棒に近づけて」ということばが届きます。

答えは、最初からありました。違うのは、答えを受け取るときの本人です。

教えることが悪いのではありません。答えには、届く時があります。その時をつくるのが、本人のプラクティスです。

⚫︎ プラクティスは、自己調整をくり返し起こす場

では、プラクティスでは何が起きているのでしょう。

自転車なら、傾いて、戻して、戻しすぎて、また変える。英語なら、じぶんの声を出して、手本との違いに気づき、もう一度やってみる。

どちらも、答えを知るだけでは起きません。

じぶんでやったことと、実際に起きたことの間にズレが生まれる。そのズレがあるから、「どうすればいい?」という問いが生まれます。そして、次の動きを変えられます。

プラクティスとは、この自己調整が起きる時間です。

教わったことが、じぶんの中で働きはじめる。そのためには、じぶんでやってみる時間がいります。

人が育つのは、ここからです。

作(文・挿絵・声に出すことば・声):坂口立考
出典・参照:以下のエンパレットノートなど