科学的とは、観察し、実験し、客観的に記述することである。客観的とは「他人として」ということである。同時に、比喩的に想像し、何かに喩 えて象徴的に表現することもまたサイエンスの核心にある。
見えないものを観ようとする試み、そのものになりきる試みである。それは人間の心の働きそのものである。そのもののふるまいと一体化してはじめて「宇宙に脈動し遍満する生命のリズムを感受する」ことができるのだろう。
サイエンス の対象は物質的な現象で、それを客観的・分析的に扱うもの、フィロソフィーの対象は、精神的な本質・原理で、主観的·全体的に扱うもの、などといった区分は、じぶんを生きる作法には不要である。テクノロジーは機械や装置の物質的な働きで、詩画・音楽・物語・演劇のアートは精神的な働きで、などと分け隔てる必要もない。社会的な、便宜上の区分はあったとしても、分け隔てないことである。
その分断が過剰になってイマジネーションの欠乏を生む。肝心なじぶんは、心身のふるまいをもった生身の人間である。どこまでいっても私たちは人間である。すべての人間に、じぶんを投影する、写し見て、たどることのできる力「エンパシー」が宿っている。
じぶんを地球の土壌になぞらえ、手にした石ころにも、確率分布という想像図にも、じぶんを投影することのできる、不思議な力を、共感の資源として備え持っている。いちばん大切なことは、人間が編み出してきた力を活かすための創意と、素(ありのまま)のじぶんに向き合う小さな勇気だ。
じぶ んの小さな [いま] という素振り練習の機会を増やすことである。そのためにこそ、私たち人間による、いろいろな探求と創造の営為を結びあわせてい かなければならない。
結び
アルマデン水銀鉱山探訪から、私自身の「丹生のみち」がひらけ、その路を「丹念に」たどってみた。アルマデンを後にした時、まだどのような展開になるかはっきりとはわからなかったが、なりゆきに委ねてその路を進んでいくうちに、心の中の「すいぎん」が採りだされ、精錬されたような思いがする。
水銀は希少な鉱物資源であり、不思議なふるまいをする物質であり、人間社会に大きな打撃と、貴重な学びをもたらした鉱毒でもある。恐ろしい有害物質がもたらした震動を、自分自身のどのようなアナロジーによって表現したらよいのか、少し迷ったが、素のまま綴る以外にはなかった。
しかし、よいもの、わるいもの、という人間の尺度で、自然はつくられていないはずである。人間のことばは、人を励まし、助ける一方で、人を 傷つけ、殺すこともある。人間にとって、ことばの過剰と欠乏は水銀のような強烈な物質の働きをすることもある。
持てる力を活かして、私たちはじぶん自身と向きあう必要がある。現代の文明社会・地球時代をよりよく生きる手がかりは、すべての人の「じぶん」の中にある。誰ひとり、ひとりで世界を変えることはできない。
でも、誰でも、ひとりでじぶんの世界が変わって感じられるように、想像し、共感し、行動することができる。思いが精錬されると実感に変わる。その時にこそ、「きっかけ」ができる。じぶんを資源として、きっかけは後から遡ってできる。
その縁をもとにして新しい源泉ができる。そして、ひとりのじぶんが資源になり、素材になり、未知の可能性になるという循環の回路を、みんなでともに歩むことができる。ひとりのじぶんは、ひとりだけではないのだから。
共感の精錬 (12) 付記 ① 水銀・人間の心・エンパグラフ
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