Empathemian『A few raindrops』

共感とは、自分を重ね合わせること、なぞられること、うつしてみることである。自然であれ、人間であれ、ものであれ、自分がむきあうとふれあい、その身になることである。

遠く離れていても心を寄せることが できる。死に別れても、心の中に生きる人の声を響かせることができる。
そのようにしてはじめて、私たちはじぶん自身という「とき」と「ところ」 そのものを生きていることに気がつくのだ。共感とは、実はじぶんの在りか、存在の意味を知るためのいちばん根源的な力なのだと私は思う。

ところが、心身に溢れる過剰、すなわち、意味の見出せない空気を過剰に吸い、じぶんが頼んでもいない取り沙汰に浸り、身に余る雑音を摂り続け、望んで もいない性急な勢いに身を任せることがあたりまえの世界に慣れるうちに、肝心要の想像力の源泉は欠乏し、人間本来に備わった共感の力は枯渇してしまうかもしれない。

思い出すことを忘れて、最後はじぶんが本当に枯渇してしまうかもしれない。ひとりの人間も、人類全体も同じことである。なぜなら、誰もがみなひとりひとり同じように、たったひとつの、いちど限りの、生身のじぶん自身を生きているのであるから。

いつの時代も文明社会を生きるための警句は数多あり、迷わずよく生きるための知恵のことばは数え切れないほどある。想像力の欠乏?そんなこと、誰でも感じていること、わかっていることだ、という人はたくさんいるだろう。だが、頭ではわかっているはずでも、ひと呼吸の数秒が待てない、ゆずれない、ゆるせない。そういう経験は誰にもあるだろう。

だからと言って、「ゆとりを持て」とか「足るを知れ」とか「日々内省せよ」と言 い放つだけでは不十分である。
いや、それでは光明は見えない。「私はほどよくゆとりを持って自適に暮らしているから関係ない」とか、「毎日、忙 しくて暇もあまりなく、それどころじゃないけど、それなりやっている」とか、「健康第一。技術とかよくわからないから自分は関わらないし、便利 になればそれでよいのでは」とか、「自分ひとりじゃどうにもならないでしょ」と人は言うかもしれない。

あるいはまた、それをさらに賢い計算で解 決することが目標だ、と言う「専門家」はいるかもしれない。しかし、立てるべき問いはそれではない。今や誰もが地球全体を覆う電磁気とコンピュ ータのテクノロジー文明社会時代に身を置きながら、「過剰・欠乏」という表裏一体の地平に立っているのである。

スマートフォンもじぶん環境の一部

コンピュータが悪いのではない。 ネットで調べれば何でもただで情報がでてくるような錯覚を覚えても不思議ではないほど、地球上の私たち人間の社会全体がそのような過剰を生み出 す運営の上に成り立っており、それに頼って暮らしているのである。コンピュータは、過剰の原因ではなく、人間の意識の過剰の結果であり、随伴する過程である。

膨大な計算量もまた地球の資源が形を変えたものである。その切実な現実は「思い出す、気がつく、感じられる」という根源的な心の働きによって向きあう以外に手はない。

誰でも、よく生きること、豊かに感じられる「いま」が、かけがえのない大切さを持っているということは「知っている」。しかし、生活環境を捨てるわけにも、文明社会を自分だけやめたりするわけにはいかない。「関係ないよ」では済まされない。

ではいったい、どのようにして、この課題と向きあい、想像と共感の力を呼び覚まし、引き出し、取り出して、確かめたらよいのか。それこそが問いなの

心の溝に気づくためには

見方、聞き方、感じ方をどう変えたらよいのか。
いや、そうではない。「見え方」が変わるようにじぶんを為向けることだろう。「聞こえ方」が変 わるようにじぶんを手入れすることだろう。「感じられ方」が変わるように、肝心なことをいつでも思い出せるようにすることだろう。

本来、人間の 根源的な力とは、ないもの、見えないものを見ることであったはず。自分の身にふりかかっていないことにも思いを抱けることであったはず。親身に なって相手に自分を重ねあわせ、心身のふるまいに映せることであったはず。

本来、欠乏したものを取り戻し、息吹をふきかけ、じぶんの地中で忘れられ、眠ったものを呼び覚まし、そっととりだして研ぎ澄ますことは、ありのままの人間に備わった手持ちの力でできるはずである。

身辺の過剰そのものを直接取り除けないのであれば、まず、欠乏しているものを増やすことであろう。過剰から欠乏へ流れる循環を日々の小さな実践、いや、ほんのひと呼吸の間におこる想像の中につくること。その数を増やすことだろう。

エンパシームとたなと響

共感の精錬 (10) 克服は、備わった力に気づくこと へつづく

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